ある日、英字新聞に載っていた一枚の写真が目に留まりました。それは、真珠湾における日本海軍奇襲攻撃の記念日に、百人あまりのオランダの婦人たち─戦争犠牲者、民間人元捕虜、元慰安婦─が、ハーグにある日本大使館の前で謝罪と賠償を求めるデモをしている写真でした。女性の一人が掲げたプラカードに書かれた「福岡」という文字が、福岡に住んでいるわたしたちの関心をかき立てたのです。

 

わたしたちは、東南アジアのさまざまな痛ましい歴史をある程度知っていたのですが、日本とオランダ両国間の歴史については全く知りませんでした。そこで姉妹会のオランダ出身のシスターに、この新聞記事を送りました。するとそのシスターが早速、アニーさんというオランダ在住の婦人を紹介してくれました。彼女の手紙には、なんと父親が、大戦中に「福岡第2」(強制収容所)で亡くなった、と書かれていました。さらに、自分は、母親と兄弟姉妹と共にインドネシアで日本軍に抑留され、数年間、収容所生活を余儀なくされていた、と⋅⋅⋅⋅⋅⋅。しかし、重い心の傷を背負って生きてきた彼女が、手紙の中で、「自分の罪がイエス様によって赦されているから、自分も心から赦したい」と語っていました。アニーさんが、当時41歳だったお父様をそのような形で亡くさなければならなかったという事実に心を痛めて、わたしたちは、少しでもお父様の足跡を探すお手伝いがしたい、と思いました。

 

しかし、大戦中に日本で亡くなったオランダ人捕虜についてなど、知っている人はほとんどいませんでした。それでも、少しずつ道が開かれ、ある日突然「福岡俘虜収容所第二分所」の元所長であった方にお会いすることができました。さらに、思いがけず福岡県水巻町にオランダ人捕虜記念碑「白い十字架の塔」があることを知り、訪問しました。それには日本で死亡した816人の捕虜の名前が刻まれており、そしてその中に、アニーさんのお父様の名前も見つかったのです。

 

ドイツの「カナン」で開かれた姉妹会の50周年記念大会には世界各国から約1000人の方が集まって来ましたが、その中にアニーさんご夫妻もおられました。お二人を日本からの参加者に引き合わせる機会が、帰国直前になって与えられました。わたしから「アニーさんのお父様が⋅⋅⋅⋅⋅⋅」と紹介しようと思ったのですが、胸にこみ上げるものがあり、涙が出てしまい、言葉を失いました。そのときアニーさんが、日本からの参加者一人ひとりを抱きしめて、「日本を愛します」と語ったのです。たった数分間の出会いでしたが、忘れることのできない、和解の貴重な体験となりました。

 

後に、オランダのキリスト教誌に掲載されたアニーさんの和解と赦しの証しを日本でも紹介することになり、またそれは本にもなりました(「インドネシアの日記─オランダ人強制収容所─」林えいだい著)。さらには、在欧日本人教会や日本各地のクリスチャン有志の協力によって、アニーさんご夫妻の日本訪問が実現しました。長崎の香焼中学校「福岡俘虜収容所第二分所跡地」で追悼式が行われ、水巻町の「白い十字架の塔」の前で記念礼拝などが行われました。「わたしたちが日本において、悔い改めとイエスの御名にある赦しの種を蒔きたい⋅⋅⋅⋅⋅⋅」というアニーさんご夫妻の祈りが、実にこの旅を通して聞き入れられたことを感謝します。