和解を求めて─台湾 祈りの旅
「カナン」のドキュメンタリー映画「大いなる私たちの神」を通して、国と国との和解のメッセージは日本でも多くの方に知られるようになりました。それによって和解の輪はますます広がっていったのです。たとえば、ある時、一人のクリスチャンの女性が、この和解の証しによって、「自分の国の過去に対して目が開かれた」と書いてきました。そして、台湾の植民地時代についての本(「台湾秘話 霧社の反乱・民衆側の証言」林えいだい著)を読んだので、「ぜひ和解と祈りの旅を企画して欲しい」と要望されました。「自分の祖国の罪の犠牲になられた人々に、あまりにも無関心だったことを気づかされ、未だ生きておられる証言者にだけでも、会って謝り、和解をいただいて感謝の祈りをしたい」と。
以下は、この旅の参加者の感想です。
「『霧社の反乱』という本を読み、この旅に備えました。本の証しはなんとも生々しく、目を覆いたくなるような惨たらしい事実が描かれていました。歴史は好きでしたが、こんな話は聞いたことがなかったのです⋅⋅⋅⋅⋅⋅ 日本はなんということをしたのか。この旅で果たして『赦しと和解』は生まれるのか。はたまた見当も付かないそんな状況で、数々の不安を抱え、わたしは台湾に降り立ったのです。⋅⋅⋅⋅⋅⋅犯した過ちを認める勇気、そして事実を知らなかったことへの罪。しかし、何よりも大きいのは、その罪を赦した現地の人々の心です。一行はどこへ行っても歓迎され、現地の長老教会でも、川中島でも皆手厚くもてなしてくれました。」
20代の新聞記者(東京)
「沖縄から最も近い外国である台湾。そこにわたしはなぜ行くべきであったのか。時がたつほど、ジワジワーと実感させられています。『謝罪』と『和解』。決してイコールで結べない、その深い溝に主イエスの十字架が架かっていることを、生き証人を通して見せていただきました。『無知』『無関心』という恐ろしい罪と、『国家的な罪』とで覆われた本当の自分の姿を見せられる時に、どうして平気でいられるでしょうか。『わたしは無罪だ』とは、どこを探しても言えないことをさらに知りました。赦されるべきではない者が赦されている、しかも取り返しのつかないことをした者が、傷つき、痛めつけられ、希望のない中で光りを見いだした方々に『すでに』祝福されていることを知らされて、ただ、ただ主イエスの憐れみにすがり、感謝して祈るほかありませんでした。人間の力ではどうしても修復不可能な一つひとつを、主イエスだけがご自身の栄光へと変えてくださる、その事実に圧倒されました。」
30代の神学生(沖縄)
「この度は、一方的な主のお導きによりまして、『台湾・祈りの旅』に同行させていただき、感謝でいっぱいです。台湾について知らなければならない事を見聞きさせていただき、先祖の罪を悔い改めて祈りなさいと御言葉にありますが、実行させていただき、神の愛の中、キリストイエスによって赦しといやしを与えられましたことを感謝いたします。」
60代の牧師婦人(福岡)
神よ、
わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い
罪から清めてください。
あなたに背いたことを
わたしは知っています。
わたしの罪は常に
わたしの前に置かれています。
あなたに、あなたのみに
わたしは罪を犯し、御目に
悪事と見られることをしました。
あなたの言われることは正しく
あなたの裁きに誤りはありません。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。
わたしの罪に御顔を向けず
咎をことごとくぬぐってください。
神よ、
わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を
取り上げないでください。
御救いの喜びを
再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。
わたしはあなたの道を教えます
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。
神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを
救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
しかし、神の求めるいけにえは
打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
抗日記念公園 霧社公学校跡で
「悔い改めを求める祈り」がささげられ、
その中で引用されていた詩編51編より